少しばかりの頭痛に堪えかねて,三成は文机を指でこつこつ叩いた。肩も凝っている。こういうときに一番好ましいのは戦場で暴れ回ることだ。肩凝りも頭痛も一挙に解決する。しかし,皆が笑って暮らせる世が来た今,それはなかなか困難な希望であった。ましてその世の中だからこそ,文官である自分の仕事があるというものだ。
戦国乱世は終わった。
終わったものを,それも世間でその終焉が喜ばれているものを欲する自分はわがままだ。三成は硯に筆を置く。仕事をするには思考がまとまらない。こんなにもわがままで集中力を欠く自分は,立場にそぐわない,と一瞬考えたが,立場など考えてみれば自分への跡付けにすぎない。
ならば,文官が少し仕事を放り出して遊んでも,誰も怒らないだろうか。まして今日は仕事が少ない。仕事が少ないからこそ無駄な思考に手が回るのだ。それならば無駄な思考の手慰みに,少し彼と遊びたい。
こんな逃避行には,彼が来る前は見向きもしなかったなぁとかなしくも笑いながら,
「かなしは愛しい,とは良く言ったものだ」
独り言を吐き捨て,三成は立ち上がった。
左近は仕事をしていた。遠慮なく邪魔をすると,左近は困ったように笑った。その困ったような笑顔をさせるのが好きだ。左近は歳も経験も自分よりもはるかに多いから,そうでもしなければ少しも叶う気がしない。だからわがままに振舞って彼を困らせるのが好きだ。
元服前の恋心というのがこれに似ていると,小姓に言われたことがある。あのにこにこと笑う彼はどこまで察しているのだろうか。ただ,それを分かってやっているつもりだと答えたら,小姓は驚いたように目を見開いて,それは悪い大人のやることですね,と笑った。少なくとも世間的にはそう捉えられるらしい。
いっそ,小姓に夜の使いでも頼んで彼を渡らせようか。
無益な妄想を止めて,左近の髪を弄ぶ。年甲斐があって少しごわついているけれども,芯のあるのにしなやかなその髪を三成は好いていた。自分の髪は赤みが強く線も細く,すぐにへなへなとだらしなく遊ぶ。左近の髪は,まるで意思を持つかのごとく強いように思える。
「なぜ,このような髪形をしているのだ」
何の気なく尋ねたら,左近は思い切り顔を歪めて考えあぐねているようだ。表情には出さないけれども,左近のこの対応が好きではない。何を隠しているのだろう。何をしようと考えているのだろう。それが軍事ならばまったく苦にならない。左近は黙って軍略を練り,自分を納得させてくれる。政でも同じだ。
けれども二人きりのときは何か違った。
「そうですねぇ…ただの尻尾のようなものですよ」
言いながら,左近はなぜかこちらを見ていた。
弄ばれる髪を見るでも,自分の手やら足元を見るでもなく,ただ自分の目を見ていた。それが心苦しかった。何を言いたいのだろう。近づいてきて欲しいという自分の心根が透けているのだろうか。近づいてはいけないとでも思っているのだろうか。
ただの尻尾なんていうなら、引っ張ったら近づいて来てくれたらいい。じっと見るだけじゃなくて,一歩こちらに来てくれたらいい。そんなの叶わないと知っているから,自分から一歩近づくのだ。
左近が動揺するのは少しだけ唇が動くので分かる。そんなに欲しいならばくれてやる,と三成はいつも思う。そんなにいつでも自分を求めるのならば,そんなにいつでも自分が彼を求めてしまうのならば,いっそ全部くれてやろうと思う。けれども彼が本当に欲しいものが分からない。もしかしたら自分になど興味が無いのかもしれない。それとももっと深い思惑があるのかもしれない。そう考え出すとキリが無い。
だから黙って一度目を閉じた。
睫の上に目線が降って来ていたのは気のせいだろう。
「とーの、そろそろ左近の老いぼれた髪が抜けてしまいますぞ」
呼ばれて,彼の髪を離すか,離さないか,少しだけ迷った。瞼を持ち上げて,可能な限り強く彼を見つめようとしたけれども,眼球に触れる空気のおかげで視界は僅かにぼやけた。髪を離すと,名残惜しそうに髪だけは手に僅かに絡みつき,そして彼の背中にもどっていった。それでも彼から目を逸らさない。
深いひとみも頬の傷も,強い肩幅も黒い髪も。
全部くれてやるから全部欲しいといえば,さて彼はどう言うだろう。
彼の心根は彼の心の臓,まだ遠く深いところにある。
***
少し手馴れた片思いとのもありじゃないかと思うのです。あくまで百戦錬磨じゃなくて恋愛中級者くらい。そして苦しんで欲しいわん。
07-07-21