「わっ」
左近は驚いた声を上げた。その拍子に体がふらついて,手にしていた紙束を見事に取り落とす。綴じていなかった紙を並べ直す作業の手間を考えただけで物言えぬ気持ちになった。さらに引っ張られた髪の根元辺りが大変痛む。恐らくそのあたりの髪を剃れば肌は赤くなっているだろう。歳の割りに黒々と残っている長髪が気に入っているのでそんなことをするつもりはあまりないが。
そんなことより。
多少恨みがましい目をして振り向いた。彼はこれといって何か表情に感情を乗せることなく,ただじっと自分の目を見上げていた。
「何するんですか」
「左近,その書類の件だが」
「ほう,殿に髪を引っ張られたおかげで床に散乱したこの書類の件ですか」
通じないであろう嫌味を言いながら,屈んで紙を取ろうとしたらこれまたもう一度髪を引っ張られて邪魔をされた。
仕事熱心な彼がこんな風に仕事にちょっかいを出すのは,自分が仕官を始めてすぐの頃には余り無かった。しかし,ある程度心を許される存在になって、頼られる存在になると,三成は時々こうやって自分の仕事を放り出して自分のところに来るようになった。大概の場合,果たすべき仕事は片付けた上で来るのがなんとも言えず三成らしい。
「とりあえず急がないから,今日は後に回して良いぞ」
普段の彼からすると,あまり出ることが想像できる言葉ではない。
仕事の鬼で,仕事ができないものには時として辛辣な言葉を浴びせることすらある。その彼が仕事をとりあえず後に回してもいいなどと言うのは,仕事よりも自分を見てほしいからなのだと左近は知っている。
「しかし殿,これは最終的に太閤殿下に関わる書類ですぞ,構わないのですか」
そのような我侭な心音を持ってくる割には,これといって表情を動かしたりしない三成に,左近は少しだけ意地の悪いことを言う。秀吉の名を出された三成は案の定少しばかり秀麗な顔を歪めた。
あぁ,そのようなお顔をされては勿体無い。
左近は目線だけでそう語りかける。三成はその視線を受けてかどうかは分からないけれども,少しだけうつむいた。その様が愛らしくて,左近はついつい甘やかしてしまう。
「まぁ,太閤殿下もそんなに厳しい人じゃありませんからね。きっと大丈夫ですよ」
「そ,そうだな」
つられて顔を上げる三成に,いつもの辛辣さは無い。あるのはまるで初恋のおなごのように顔を赤らめる姿だ。らしくないな,と左近は思う。けれどもそのらしくなさをいとおしく思う。
「なぜ,このような髪形をしているのだ?」
そして三成は会話を仕掛けてくる。このこと自体があまりにも珍しい。さらに自分の髪の裾を手にしているからもはや可笑しいくらいだ。けれどもその珍しさから来る喜びの表情は表に出さないで,左近ははて,なんと答えたものかと考える。
髪を伸ばしていることにさして意味は無い。強いているのならば、切るのが面倒だからと,この歳で割りに健康な髪を誇りに思うからだ。けれどもそんな普通の回答では彼は喜ばないだろう。なんとかして三成を喜ばせてやりたいと思う自分は若干恋の病としては重い部類に入っているだろうと容易に想像できた。
「そうですねぇ…ただの尻尾のようなものですよ」
あなたを釣り上げるためのね。
左近はそう口に出してはいわなかったけれども,長い髪を手で掬ってあそんでいる三成にまた目線だけで語りかける。触れることはかなわない。相手は主だ。長い仕官生活の中で,主の妻に横恋慕だとかのみちならぬみちも経てきた。どれだけ苦しいか分かっているから,左近はその感情を表に出さない。
けれども三成は無防備に一歩近寄ってくる。
あるいは何か思惑があるのかもしれない。けれどもそれに今答えることはできない。三成はしばらく物言いたげに自分を見ていたけれども,ただ黙って一度ゆっくりとした瞬きをして,また強く引っ張った。
長い瞬きがもし確信犯ならば,これはそんじょそこらの遊女よりもはるかにたちが悪い。睫が落とす影も,瞬きと同時に少しだけ緩んだ口元も,自分の強い決意を揺るがすに十分な威力を持つものだ。
そう,矛盾している。左近は髪を望むがままに触られながら思う。決意をしているくせに,餌をばら撒いて獲物がかかるのを待っている。この美しいひとをどうにかして自分のものにしたいとか言う無益なことを考えている。頭皮にかかる痛みが,少しだけ彼の方に自分を引き寄せた。どうしていいかわからないくらいには,自分も恋に落ちている。
この距離を愛していたくて,そしてこの距離を壊したくて仕方ない。
「とーの、そろそろ左近の老いぼれた髪が抜けてしまいますぞ」
だから選択権は彼に放り投げる。こう言って離れるのも,離れないのも三成次第。
淡くぼやける彼の目線が少しだけ痛かった。
***
聖地なのは二人の距離。左近がただのえろおやz(ry)
07-07-21