Novel

テスタメント

 この世は,死の気配で満ちている。
 人が一人死ぬたびにいつもそう思う。かつて寺に居たから,余計にそう思うのかもしれない。
 人は必ず死ぬ。そしてそれを恐れて,その恐れから目をそむけて生きている。
 だから身近で起こった死は,その気配を引き寄せる。
「殿」
 左近の声は,遠慮がちだった。
 分かっている,と言って,襦袢のみを着てぼんやりしたままだった三成は,上に黒い服を羽織った。そうやって,密葬の支度をしている間にも,周りは動いている。気取られてはいけないことや,かつての恩を見限るようなことをする輩の前で,毅然としなければならない。嘆く余裕などどこにも無いのだ。
「左近,俺は」
 その思いとは裏腹に,珍しく思考よりも先に言葉が出た。そんな自分を苦々しく思いながら,どうなさいましたかと尋ねてくる左近になんでもない,と答える。思いのほか手先は震えていた。帯を締めようとして力が入らず,左近に手伝ってもらうがままに着付けを任せた。ぎゅ,と締められた帯が内臓を圧迫し,咄嗟にそこまで来て止めていた涙が流れた。
「殿,申し訳ございません,きつかったですか」
「…貴様,わざとだな」
 言いながら,三成は涙を止められなかった。もうどうしようもなかった。秀吉が死ねば,この天下は滅びる。あの太陽のような笑顔だけが辛うじて天下をつなぎとめていた,まるで袋の緒のようだったのだ。その緒が切れた今,混沌が広がり,それを別の緒でつなぎとめようと風呂敷を広げて待ち構える狸がいる。
 左近がわざときつく締めたのは分かっていた。泣かない自分を心配して,左近は秀吉の死の知らせから片時も離れないで三成の傍に居た。泣かなくて平気ですか,とたずねられて,当然だ,と答えたときの困った顔も,わざとだなと言われて少し悪戯そうに微笑んだ顔も,すべてそれを確信させた。
 左近が今度は普通に帯を締める間,三成は顔を手で覆って声を殺して泣いた。なにもかもがなくなってしまう。育ての父をなくし,そしてなくしたものから広がるのは混沌だった。それが分かっているから無力に泣いてしまう。
 泣いている場合ではないのに。

 感情が先行してしまうくらいに気がめいっている自分を,支えてくれる左近が居てくれて本当に良かったと思う。彼が傍に居てくれるおかげで,守らなければならないことがあることを,秀吉はくれぐれも忘れないでくれと毎日自分に伝えてくれていたことを思い出すことができた。
 三成,お前が居てくれてほんとうに助かる。
 三成,喧嘩ばかりするでないぞ。
 三成,皆が笑って暮らせる世に,お前のおかげでなってきたぞ。
「殿,大殿の言葉を,お忘れになりまするな」
 三成の衣の不備をささっと直しながら,左近は小さな声で語りかけた。三成は懐紙を取り出して涙を拭いた。部屋の外にあわただしい足音が聞こえる。誰が居るかは分からない。
「大殿の言葉が,殿の行く道を示す澪つくしですからね」
「…分かっている」
 秀吉はさほど自分の死後をどうにかしたいという意思を示さなかった。それゆえに,幼すぎる秀頼の背後に立とうとする輩は,あちらこちらでこの密葬の会場ですでに動き出していた。
 豊臣の天下をただかたくなに守りたい。
 その三成の思いを誰よりも守ってくれるのは,今細い骨になってしまおうとしている秀吉を置いていないと,左近は言っている。秀吉の言葉を守ることが,豊臣を守る術になるだろうと,ただ今はそれを信じるしかなかった。
 死んだ者は還らない。
 ただその思いだけは守られなくてはならない。
 ただ呆然とその悲しみだけから身を守ろうとしていた三成は,左近の言葉に死の気配を打ち払った。悲しみに身を泳がせはしないけれども,三成は強い目をして,左近,支度ができたのだから行くぞ,と声に出した。左近はほっとした表情で頷く。
「左近,秀吉様はもう居ないのだな」
 声音だけは少し気弱だったけれども,その姿は他の者が傲慢とするいつものそれそのものだった。左近が少しだけ難しい顔をして頷くと,三成はふすまを開けて青い空を仰いだ。
「ならば俺は,秀吉様の思いをお守りしなければならないのだな」
「そうですな」
 あまり多くは語らなかったけれども,左近は三成の言葉で己の意図を察した三成にほっとしたらしい。大きな手のひらで細い肩を叩いた。その衝撃でまた少しだけ泣きそうになったけれども,もう部屋の外だから泣かないで,代わりに空に向かい,お気をつけてと呟いた。
 そして二人は,小さくなってしまった体が置かれた場所へと,無口に歩き出した。

***

秀吉の言葉が三成にとって最大の約束。
07-06-21


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