Novel

舞う、ひらり

 くのいちの所業は一々が軽い。自分に飛び付いてくるときも,あっという間に駆け去るときも,音など立てたりしない。無意識だろう,前に抱え上げたときさえ彼女は自分に負担をかけまいとできる限りの努力をしていることがわかった。どこか憎らしく感じたのは,そんなに頼りないかとか言う情けない言葉に続いた。くのいちは笑って,あたしには幸村さまくらいしか頼りに出来る人はいないよ,と言った。ならばなぜ頼らないのだと尋ねると,頼りになる人は普段は大切に取っておかないと,一番頼りたいときに頼れないじゃない,とあの早口で言った。
 特別とかいう言葉を感じるのは存外心地よいのだと,そのときに思い知らされたのかも知れない。

 白く塗った手や,紅を佩いた目元,崩して着た衣だとか,思いの外しおらしい彼女のそのしおらしさが,不思議にすら思えた。それでも彼女は自分の傍に居たいだなどと言うのだから,たまには押し倒してみようかとかほんの少しだけ不埒に思った。人畜無害だとばかりに思われるのは,あまり愉快ではない。どうしようもない醜い自分だとかをやる瀬なくさせる。
 腰に回した腕を彼女はどう思っているのだろうか。胸元に覗く苦無と妄想がないまぜになって,柄にもなく幸村は少しばかり劣情を抱いていた。くのいちはしばらく見詰め合った間の後はなにも言わず,ただ俯いて歩いている。自分の視線に気付いているかどうかは定かではなかった。
 くのいちにこんな思いをさせる男は本当は許しがたかった。
 小助の報告によれば,くのいちはきちんと仕事をしたらしい。要するに,上手くしとめたのだろう。しかしその代償が彼女のこの表情では困る。まして,自分はその表情に劣情を抱いている。これではなんらその男と変わらないではないか。

「幸村さま,あのお店に寄りたい」
 くのいちがふと袖を引いてこちらを見上げた。そのときに僅かに不埒な視線をもしかしたら彼女は感じたかもしれないけれども,これといってそれを態度にも表情にも示さなかった。よほど疲れていて気付かないのか,気付かない振りをしているのか。後者だとしてその意味は自分にとって都合が良いのか,都合が悪いのか,それは幸村には分からなかった。
「簪か?」
「うん」
 こんな格好でもしていないとあんなお店寄れないんだから,とぼやく彼女の口調はわりといつもどおりだった。胸のうちに何を隠しているかは分からないけれども,それで少しでも彼女の気持ちが上向くのならば,そのわがままくらいは聞いてやろうと思った。
 いいぞ,というと,彼女の飾り下駄がうれしそうにからん,と足音を立てた。彼女のいつもの軽さによる不安感を,その音は地上につなぎとめてくれる。
 手を伸ばしてはいけない,手に抱き込むことは本当は許されない。
 そんな陳腐な話がここにあってたまるものかと僅かに脳裏をよぎった。そしてそれを振り払うべく,彼女に連れられるように簪の店に入る。

 牢人と馴染みの芸者,程度に見えればいいと思った。けれどもその店の主は,おや,似合いの二人だねぇ,だなどと言うものだから,自分が慌てふためく前に彼女がでしょ? と言った。そう言いながら彼女の肩が僅かに強張った。嫌悪感から来るものだとしたらそれはあまりにも哀しく思えた。彼女はそれを気付かれなかったものと思っているらしく,自分の手を離れうれしそうにいくつも並ぶ色鮮やかな簪を手にとって遊んでいた。
 ふと彼女が手に取った鈴のついた簪の凛とした音に,思わず言った。
「それが良いぞ」
「そう?」
 あぁ,なんと愚かな恋情。
 あの軽い彼女の存在を確かめていられるように鈴の音をつけたいだなんて。
 くのいちはその自分の感情を読んでか否かは分からないけれども,それを試しに付けてみてくるりと一周回った。鈴の音は衣擦れにも負けるくらいささやかで,あるいはそれは彼女がそうやって動いたからかもしれない。
 それでもと,幸村は思う。
 今のこの鈴の音を一生忘れない。それだけで彼女を掴んだつもりになれるのならば,そんな決意は容易かった。くのいちがそれをつけたままの間に,もう一度,それがいい,と口にした。二度目はその感情をはっきり理解した上で口にしたから,僅かに劣情が胸をよぎった。それでもそれを隠すことが出来るくらいには,自分は大人だと思った。
「じゃぁ旦那さん,これをくださいな」
「はいよ」
 主が言った額より少しだけ多めに,幸村は小銭を掴ませた。安い駄賃だ。
 くのいちはうれしそうに,その場でもう一周した。可愛いお嬢ちゃんだ,と主はにこにこして言った。劣情のない老爺の声だった。もうこの主と同じ目で彼女を見ることは出来ないかもしれない。そう思いながら,幸村は言った。
「絶対に,肌身離すなよ」
「…うん」
 ほんとうに,そうなれば良いと,心から願った。
 主に礼を言って,また彼女の腰に手を回してそこを去る。主の言葉に反応したときのように緊張されたら悲しいと思ったけれども,くのいちはうっとりとした普通のおなごのように幸村に身をゆだねた。腕の中で鈴がしゃらんと鳴った。
 けっして,この音を忘れない。
 その場で抱きすくめたら,くのいちはどんなかおをするだろうか。それをできないのが自分であり,それゆえに結局彼女は自分を人畜無害だと思っているのだろう。それでも僅かに彼女を捕らえたと思うのは心地よかった。だから,彼女に不快な思いをさせた,心地よかったはずの飾り下駄の音は,もう腹立たしいだけだった。

***

もどかしいくらいくのいちを好きな幸村さまがかけて満足です(鼻息荒く。
07-06-28


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