Novel

それでもこの歩みを止めない

 白く塗った手や,紅を佩いた目元,崩して着た衣などをさしおいても,どう見ても自分は幼かった。逆にそのために呼ばれたのだから仕方ない。
 がりがりの体は,男好きがするものだとは到底言えないと知っていた。だが世の中にはそういうものを好む者もいるから,男はよく分からない。豊満な女性,たとえば織田の妖婦と名高い姫などがいかに男に好かれるかを見るに,よくもまぁこんな趣味を持って,そしてこんな最期を迎える男が居る者だと,哀れに思いながら,くのいちは苦無を素早く懐紙で拭いた。
「飴だけであたしを釣ろうなんて,百年早いんだな」
 上田の城下,色街。
 忍の息がかかった遊女屋に標的の男が来るよう仕向け,実行には自分が当たる。
 ここじゃいや,とか少しわがままを言って,細い路地に男を連れ込み,抱き締めて着物の裾を割ろうとした手を仕込み下駄で蹴って笑ってから,一息で頚動脈を刺し貫く。返り血を浴びないようにそっと離れ,見えないように供をしてくれていた忍たちに合図を送る。屋根から下りてきた男たちは,お疲れさん,それにしても名演技だったな,と笑った。
 くのいちも笑った。

 男が何をしてしまったのかは,聞いたような気がするけれども興味が無かった。大方徳川に内通でもしたのだろう。仲間たちは死んだ男の衣から密書か何かを探していたが,自分はそれを少し離れたところから見ているだけだった。手伝った方がいいかとは思うのだけれども,本当は吐き気がしてそれどころではなかった。それを察したのか,休んでいていいぞ,とその中の筆頭が声を掛けてくれたので,ありがたくその言葉に従う。
 壁にもたれて,無意識のうちに脚を手で払った。
 忍としては不足かもしれない。
 けれども,不快で不快で仕方なかった。
 皮から骨までが近い自分の体は,情けなくなるほど感覚が鋭敏だった。
 死んだ男に与えられた飴を溝に吐き捨て,くのいちは仕事をしている仲間たちからも背を向けた。
 動かないその手ですら見たくなかった。

 結局残った仕事はすべて仲間に任せてしまい,くのいちはからん,からんと飾り下駄を鳴らしながら色街を城に向かって気ままに歩いた。血の匂いがしないか不安だったけれども,そこかしこに漂う香の匂いが自分の匂いを隠してくれていると思う。忍たちと同じように忍の道を通って帰っても良かったのだけれども,少し一人になりたかった。
 けれども色街に漂う甘く熱い空気は自分の不快感を拭うには足りず,あの水が清清しい城の庭にでも早く戻らなくてはなぁと思う。胸元の苦無を取り出して,色街に群がる男も女もみんな斬り捨ててしまいたい。吐き気が抑えきれず,少し胸を押さえる。
 声を掛けてくれる男を片手で払おうとしたら,その前に逞しい腕に抱きとめられた。
 あぁ,また色街に似合わない人が一人。

「…顔色が,優れないぞ」
 色街におおよそふさわしくない彼は,それでも彼なりに忍んだ格好をしていた。紺色の着流しは彼に良く似合う。ただ,惜しむらくは色街にいるチンピラか何かと並ぶと,彼は清清しすぎた。背筋をぴんと張って,早く帰りたいあの城の水と同じように,澄み渡っている。
「幸村さま,どうして」
 声をかけようとした男は,彼の視線に蹴落とされて逃げた。それにしても城下,それも色街にわざわざ幸村が出てくる理由が分からず,くのいちは声を潜めてたずねた。ここで大声で彼の名を呼んだら,それこそ彼の名に関わる。
「小助が,お前を助けにやってやれ,というものでな」
 彼も忍んだ声で返してきた。
 幸村がまとっている清清しい空気を吸うだけで,少し気がまぎれた。普段ならばこんな隙は絶対に見せないのだけれども,小助がそんな風に伝えたのならば,その言葉を利用して今だけは幸村に甘えても良いと思い,そして彼に体を預ける。
 飾り下駄が,からん,と音を立てる。
「…ありがとう,幸村さま」
 幸村が,僅かに身じろいだ。
 あぁ,この人にもこんな劣情があるのだな,とくのいちは思った。さっきの男と同じように,幸村は今,僅かかもしれないけれども自分を求めた。さっきのような吐き気はしなかった。ただ心地よかった。
 こんな,皮と骨ばかりの体のなにが良いのか,くのいちにはよくわからなかった。それでも,幸村が本当に少しでも自分を女としてみてくれたことが,うれしかった。そのためならば,こんな甘ったるい空気も,こんな動きにくい格好も悪くは無いかもしれない。

「辛かったか」
「なにが」
「遊び女の振りが,だ」
 幸村はくのいちの体を大切そうに抱え込むように,右腕をくのいちの背に回し城の方角へ歩き出した。触れられてもまったく吐き気はしなかった。
 嘘をついても仕方ないから,くのいちは頷く。
「ならば,なぜこんなことを続ける?」
 その問いかけは,ともすれば役立たずといわれているようだった。
 くのいちは項垂れる。
「お前が辛そうなのは,見ているに堪えない」
 続いて幸村が言った言葉は,けして愛の言葉でも恋情でもなんでもないことをくのいちはよく知っていた。それを踏まえた上で,くのいちは泣きそうになった。こんなにもこの人は自分を思いやってくれているということが嬉しくて,そして自分の身に纏っている血の匂いが今更ながら悲しくて,項垂れたままくのいちは表情を殺すのに苦労した。
「…たぶん,なんでもいいから幸村さまの傍にいたいんだよ」
 そして,また今日もきっと届かないであろう,愛の告白に似た言葉を吐く。
 口の中にさっきの甘ったるい飴の匂いが広がって,吐き気を覚える。
「…そうか」
 少し遅れて帰ってきた幸村の言葉は,珍しくその意図が読めなかった。
 どうせ,文字通りの意味にしか捉えては居ないだろう。そう思ったけれどもなぜか気になって,項垂れたままだったくのいちは顔を上げて幸村を見た。
 彼は真摯な表情でこちらを見ていた。それはいつもだったらいつもの表情で済ませられるけれども,今は場所は色街で,彼にしては妙な間があって,さすがにいくら鈍い幸村でもなにかが起こったのだろうかとくのいちはわずかに首を傾げる。
 幸村は何か言いたげにずっとこちらを見ていたけれども,それでも何も口にすることなく,ただくのいちの背に回した手に力を入れて,行こうか,と言った。くのいちはそれに従って頷いた。
 けれども今の間はよくなかった。よくわからないけれども,もやもやした期待が残ってしまう。幸村さまは色街の香にやられただけだ,くのいちは自分に言い聞かせた。からん,からんとなる飾り下駄が無駄に喧しかった。

***

もどかしいくらい幸村さまもくのいちを好きだったりしたらいいと思う。
07-06-22


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