Novel

合わせ鏡の中

「貴方のために泣くのなどは御免です」

 そう言いながら司馬懿は陣幕の内で曹丕の肩に包帯を巻いていく。矢が刺さった傷の深さが問題なのではなく,傷を彼が負ったことが恐らく問題なのだろう。手は白く骨ばっていて,女のものと見紛うではないけれどもしかしそれなりに情欲を感じさせた。曹丕は司馬懿の顔が今にも泣きそうにゆがんでいるのを見た。それだけで満足できる自分は病気だと思う。
「何を泣くことがある」
「斯様な怪我をなさって」
 私とて人の子ですから,動揺くらいは致します。
 押し隠しきれない感情のゆれが司馬懿の手を震わせているのが分かる。
 いつか。
 いつかこの男が裏切る日が来ると、ずっと思っていた。
 その裏切りの上に立つ関係だからこそ,時限のある仲なのだと思っていた。
 それが今,崩れようとしている。

 孫呉が白帝城攻めに全勢力を傾けたにもかかわらず敗れたことによって崩れ,その残党を刈り取った蜀は,それでは飽き足らず魏に攻め込んだ。放っておけば無能な君主とともに自壊するはずだった蜀を,潰すよう進言したのは司馬懿だった。
 放っておけばかならず災いになりましょう。
 そんなことはないと曹丕は思ってはいた。蜀の君主と,自分の器を見比べた時,けして自分は彼には見劣りしないはずだから,相手が自壊するに任せればよいと思っていた。だが,それが司馬懿の翻す唯一の反旗だと見抜いてもいたから,敢えて司馬懿の好きにさせた。
 案の定,無駄に国力を削り取られ,病を得て尚軍略を繰り出す諸葛亮がいて,どんな戦でも必ず司馬懿の策を超える力で乗り越える趙雲や馬超がいて,魏は僅かずつではあるが崩壊していった。それが司馬懿の目的だと曹丕は悟っていた。魏と蜀に戦わせ,双方の力を削って弱ったところを,自分が全て乗っ取るのが司馬懿の目的だと曹丕は気付いていた。だが,気付かない振りをして司馬懿の好きにさせていたのは,司馬懿が自己の野望と自己の思慕のあいだで揺れ動く様を見るのが恍惚だったからだ。
 その秀麗な顔が,矛盾に苦しむ。
 それを見るたびに,司馬懿の心は自分に支配されていると,曹丕は感じずに居られない。

「貴方のためになど」
「司馬懿,私は満足している」
 包帯の端を噛み千切り,泣くのなど御免だといいながら俯いたまま瞳を震わせた司馬懿に畳み掛けるように曹丕は呟いた。司馬懿は顔を上げる。自分がどれほど情けない顔をしているのか気付いたらしく彼は唇を引き締めた。だがだからといって彼が自分から目をそらす理由にはならない。
 意地を張る司馬懿の引き締まった表情は,秀麗そのもので。顔を背けた彼の,その横顔は実に見るに値する。細い腰を引き寄せた。司馬懿は抵抗しなかった。もし普段どおりならば,そんな人前でこのようなことをときゃんきゃんほえるはずの彼が何も言わないことが,何よりも彼の心のうちを語っている。
「まだお前は私の元を離れずに居てくれる。そのことに満足している」
「…この戦には馬超が出ております。私もそろそろ決着をつけたい」
 白いかぶとに白金の髪の男は,いつも司馬懿の上を行く。それは果たして諸葛亮の策略なのか,馬超の実力なのか,或いは司馬懿の実力なのか。ただ司馬懿の頭をかき回しているのは紛れもなくその男だ。今回の戦も張った策をすべてあの男が力でねじ伏せている。
 曹丕の口説き文句をそうやって他の男に転嫁して受け流す司馬懿の逃避は腹立たしい。司馬懿はいざ自分に向けられる何らかの感情に困惑する時,必ず逃げを打った。そうやってほんとうに曹丕の感情を彼が全身で受け取ったことはそれほどない。今だってこうして自分の腕に収まりながら,司馬懿はけして曹丕の感情を見ようとはしない。
「あの男は曹操様を憎んでおりますから」
「私もか,ふ,馬鹿らしい」
 司馬懿の体を離し背を向けて,双剣を支度する。密着していた体を話した一瞬,司馬懿が震えるままだった瞳を自分のほうに向けた。まだその瞳には溺れない。瞳が溺れて自分にすがってくるまでは,自分からは溺れてやらない。彼が意地を張るのならば自分が意地を張っても許されてしかるべきだ。
 細い手首が剣を支度する曹丕を制する。
「貴方の手を煩わせるなど」
 瞳は潤んでいたが,口元は笑っていた。
 彼は,もう打つ手がないという点においては,自分と変わりない筈だ。
「私が,白馬の首を取ってまいりましょう」
「どうやって」
「さあ」
「司馬懿,行くな」
「いいえ,参ります」
「愛している」
 見開いた目が一度大きく揺れて,そして凪いだ。
「斯様なことを仰っても,貴方のためにはけして泣きませんよ」
 静かな瞳で司馬懿は諦めたのか,溺れるように曹丕の青衣にしがみついた。双剣を床に落とし,しがみつく司馬懿の手に握られていた黒い羽根扇を奪い取って放り投げると,その背に腕を回す。相変わらず薄い背中だった。幾度抱いてもその薄さは嫌な想像をさせた。肩に縋り付いてきていた司馬懿の手は,包帯の上から傷をいとおしそうに撫でた。
「さいごまで,貴方は戯ればかり」
 砂煙の音が近づく。
 結局のところこの生き物を手放すなど最初からできるはずもなく,ただ口付けてその瞳がもう一度歪んだのとともに自分の視界が揺らいだ気がしたことが,何よりもの恋への失墜の象徴なのだろう。
 彼は自分を裏切れない。自分は彼を手放せない。

***

4馬超エンディングは奇跡的な丕司馬ムービー,ですよね?<自信ない
08-04-09


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