Novel

Never Lover

 誘われるように掬った黒い髪が指の間を滑り落ちる。少しだけ汗で湿り気を帯びたおかげで寧ろ光る緑の黒髪は,司馬懿の特権とも言える。けだるそうに曹丕の指を俯せたまま顔だけを上げて暫くじっと眺めていた司馬懿は,やがて諦めたようにその肩の力を抜いた。つられて髪も曹丕の指の隙間から滑り落ち,白い敷布に広がる。視線だけはこちらを見たままで,その首筋の細さと艶やかな髪と人を殺しそうな視線の織り成す彼と言ういきものが,激しく心臓を穿つ。
「早く,引き上げねばなりませぬな」
「もう少しここにおれば良かろう」
「出づらくなります」
 本音なのか冗談なのかよくわからないことを言いながら,その実彼は別に寝台から起きあがろうともしていなかった。ただ単に,言っては見たけれどそんなことをしたくない,のだったら嬉しい。
 自分が彼を引き止めているようで。

 情事の後彼が未練もなく外に出ようとするのも,未練がましく傍に居るのも,曹丕にとってはいずれにしても司馬懿を慈しむ材料としかならない。白い肌やら細い手首やらをもう一度手の平で辿ると,擽ったそうに司馬懿は身を捩った。その様はまるでほんとうに恋仲かなにかのようでいとおしい。断じて彼は認めないだろうが。そして断じて自分も認めないだろうが。
 恋仲,だなんてものではないのだろう。
 勿論そうであればいいとは思っている。願っているといっても良い。自分は司馬懿の何もかもを受け入れる覚悟をしている。たとえばそこに裏切りの刃があったとしても,喜んでこの身を貫かせてやろうと思っても居る。ただそれを口にしたらきっと現実になるか,あるいはその刃が直前になって向きを変えて彼自身を苛みそうで,それがおぞましくて彼に恋だの愛だのを囁こうと思えない。
 覚悟だとか想いだとかは抱え込んでいるのにどうしてかそれが相手にのしかかるのが怖くて,それが相手に受け入れられた瞬間この夢か何かのように曖昧に体や主従でつながっている関係が切れてしまいそうで,踏み出せないで居るのだ。曹丕はそのことを自覚していた。自分は心を用意していても,相手の心と上手くつなげない。つなぐことができなかったときに傷付くのが自分ではないような気がするから臆病になる。
 不意にあまり愛想の無い,むしろ殺意のある視線を寄越していた司馬懿が目を閉じた。このまま眠らせて朝までここに居て欲しい,だなんて態々言ったらどうなるだろうか。いつもどうにかして去らなくてはとか言いながら何も言わずに明け方まで彼はここで休んでいく。自分はその彼の隙のある寝顔が好きで殆ど眠らない。どうせ昼間に眠ることの出来る立場だからいいのだ。
 彼は瞳を閉じて,そして呟く。
「上手く,行きませぬな」
「何がだ」
 なんとなく見え透いてはいるけれども,それを認めてやるのが悔しくて態々言わせる。いざ言わされようとすると彼が具体的な内容を言わずにぼかすのは見え透いていたので,怖いから態とそうしたのかもしれない。
「貴方との,間柄でございますよ」
「なぜ,傍にはおらぬ」
 案の定彼は話題をぼかして言っただけで現実的な欲しい解決策など言う素振りも見せなかった。自分もそうしても良かったのだけれども,彼の伏せられた睫が少しだけ震えるのが見えたから,たまには彼をその思惑から突き落として冷静なその顔を剥いでやろうと思ったのかもしれない。
 彼はそうやって自分が食いついてきたことを珍しいと思ったのだろう,目を見開いた。切れ長の,目じりに表情の色を乗せるのが得意な司馬懿は,ぼかして逃げるような態度を見せながら今に限って無垢透明な表情で自分を見ていた。逃げるならば逃げればいいのに,そうやって自分の腕の中に納まろうとする態度を見せると捉えたくなることを知ってやっているのだとしたら,もう自分はすっかり彼の思うがままだと思った。
 司馬懿はそんな自分の思惑をどうとったのか知らないけれども,一度無垢に見開いた瞳に,その眦に諦めの色を乗せて伏せた。吐き出す息に混ぜて,搾り出すように言った声を,曹丕は聞き逃さない。むしろ,聞き逃した方がまだ良かったのかもしれない。
「一番好きな人と付き合うのは大変だから,貴方とはうまくいかない」
 自分をそうやって舞い上がらせて突き落とすのは彼だけだと,司馬懿は知っているだろうか。知ってそうやって曹丕を操っているならば彼はほんとうに三国一の軍師だと云えるだろう。自分が紛れもなくそうやって保証してやっていい。この弁舌が態とだとしたら,もう自分は彼の思惑に嵌って,絶対に自分からは落ちない気で居ながら自分を落とそうとする彼のために何もかもを投げ出そうとしてしまうだろう。
 けれども,彼がほんとうにそうやって本気で悩んでいるから,軽はずみに踏み込めない。
 歯痒さをくちびるに重ねる。幸いにも司馬懿はくちびるを重ね返してきた。幾度か触れ合わせるうちに,司馬懿のほうからくちびるにじゃれつくように舌を這わせてくる。それはもうとても珍しくて,先程諦めを乗せた眦を今度は色を載せて開いて,このつんとした表情ばかり見せる男はそれはそれで淋しがり屋なのだろう。
 だから,うまくいかないだなんて分かり切った様子で言いながら,彼が本当は淋しいことも知っている。
 ただ,今はまだ彼にそこまで踊らされるのが悔しいから,自分からは何もしてやらないだけだ。
「では仲達,貴様はこの世界で私を最も好いているのか」
「当然でございましょう」
 この私が仕えるに値するのは貴方一人,文帝陛下貴方一人です。
 踏み込まないのは踏み込んだ後の世界にすがるものを見出せないからです。
 呟きながら自分の衣にしがみつく司馬懿は,たとえ目線で何を語ろうと口で何を嘯こうと,それでも自分を一番好いているのだから,踏み込む以前に捕らえられていることを知ったほうが良いと思ったけれども,それは自分も同じことが言えるので曹丕は口にせず,ただ彼の目蓋を柔らかく舐めた。司馬懿は一度軽くぴくりと震え,上目で自分を見る。
 無垢に見開いた目に映る自分は一体どんな顔をしているだろうと,曹丕は詮無く思った。

***

自分が曹丕様好きすぎてびびる司馬懿とか良いと思う。
08-03-07


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