Novel

抒情詩

「居なくなるのならば何も残すな」

「突然どうなさいました」
 明日の星の動きを城に与えられた自室から眺めていると,唐突に背後で扉が開いた。ことさらゆっくりと振り向いたのは,彼がたぶん来たという根拠の無い自信を持っていたからだ。
 果たしてそこにいた曹丕はしかし彼らしくないことを突然口にして,司馬懿がその真意を尋ねるよりも先につかつかと傍に寄ってきた。司馬懿は思わず拳を握り締める。彼がこんなことを言うからには,何か漏れたか,としか思わずに居られない。
 曹丕を裏切る日はいつか来る。
 そして曹丕はそのことを知っている。
 そのうえで何故彼が自分を傍においているかは知らない。
 ただ傍に置かれる程度に信頼されていることを言い訳にして,自分がその日を先送りにしていることは間違いない。

 冬の夜のしんとした冷たい空気をまとって唐突に何かを言いながら部屋に入ってきた曹丕は,自分の固く結ばれた拳の上に掌を重ねて包み込んできた。何も出来ないままじっと体を硬くして来るべき精神的もしくは肉体的な衝撃に備える。ふわ,と彼の外套に焚き染められた香が,次いでその青い布が自分を覆い尽くし,そして最後に彼の腕が自分の体を抱く。
「欲しい,お前が欲しい,仲達」
「曹丕様」
 視界は彼の青い衣で覆われる。彼の顔を窺おうとしても首の辺りをきつく腕に抱きこまれていて動けない。
 その力というや,時としてからかって打ち込んでくる剣を扱うときよりも強いかもしれないというくらいで,彼の抱え込む何かがその力を増しているのだろうと思うと簡単に振り払うことも出来そうにない。自分はもともとしっかりした骨格ではないが,それにしてもその隙間から彼の力が入ってきて折れそうになる体が痛い。
「曹丕様,少し痛うございます」
「離したら何処かへ行きはしないか」
 揶揄するような声音の曹丕が力を弱めたので顔を上げると,少し落ち着いたのか表情に余裕のある彼が腕の中の自分を見下ろしていた。纏っていた冷たい空気が少し緩んでいて,司馬懿は胸のうちで息を吐きだす。
「何処へ参るというのです。このような夜分にお渡りになられても,差し出せるものは何もございませんよ」
 殊更肩の力を抜くために肩を回すと,こき,という音が鳴った。文官である自分の立場からしたら何気ない音だけれども,今目の前に居る青年に抱きすくめられている間にそれほど緊張していた自分を感じて司馬懿は改めて気が滅入る。

 曹丕は何を求めて自分の元へ来ているのか知っている。
 けれどもそれは自分には与えられない。

「差し出さなくても良い。お前を勝手に私が奪うだけだ」
 ゆるく曹丕が腕で作る輪の中にとらわれたまま,司馬懿は曹丕の言い分に顔を顰めた。曹丕はその自分の表情を気にとがめた様子もなく,司馬懿の額にかかる前髪を掌でかき上げて唇を落とす。そのあたたかなやわらかいものに司馬懿は恐怖心を覚える。このぬくもりはいけない。覚えてはいけない。いつか裏切るものを覚えても,それを手にすることが出来ないことも知っているのに。
「しかし貴方がわざわざここまでいらしたのに,私は何も出来ないのですか」
「私に囚われることならば出来るだろう」

 決めているのだ。
 彼からそむくときには香り一つ残さず消えること。
 曹丕を裏切る日はいつか来る。
 先延ばしにしているその日が来る前に,彼の身の回りから自分を消すと。
 曹丕がそうならないように自分を繋ぎとめていることを知りながら。

「捕らえずとも斯様に傍におりましょう」
「足りぬのだ,仲達。お前が足りぬ。お前がもっと私を蝕み,私がもっとお前に依存するために,足りぬ」
 あぁ,このひとはまたそのような。
 自分が内側からこの青年を蝕んで毒して手にすることは容易い。彼が自分の血を毒と称して愛でたあの戦の日など,彼を手にして甘やかして落としてそして破棄することだってきっとできたのだ。
 けれども出来ぬのだ。
 曹丕は自分がそうやって司馬懿に裏切られることを知りながらなお自分を蝕むように要求する。戯れか真意なのかはわからない。彼がわかってやっているかどうかもわからない。けれどもそうやって彼の心情を知ることが出来ないまま彼を自分の手で泳がせようとしても,会わずに居られない。
「貴方さまはこれ以上私に依存できると仰るのですか」
 目上にして天下にもっとも等しい人間にあまりにも不遜極まりない言葉だったけれども,司馬懿は曹丕にたずねた。傲岸極まりなく,否定されてしまえばきっと翻意がはじまる。それでもたずねたのは否定されない自信があったからだ。
「いつかお前が私を己で刺し貫けと命じたら,そうできるほど依存する日が来るだろう」
 もちろん,お前次第だがな。

 曹丕を裏切る日はいつか来る。
 その前に,彼の幸せを見つけて欲しかった。
 自分が傍を離れても大丈夫なように,自分ひとりを裏切りでなくしても大丈夫なように,自分がかけらさえひとつも残さなくても大丈夫なように。

 曹丕はそんな自分の傲岸な叛意を手に取るようにして楽しんでいる。
「お前は決してそんな命令を私には出せないだろうが」
「何故です」
「お前は私に惹かれているからだ」
 曹丕が言うと同時に重ねてきたくちびるは,重ねてしまって後悔した。重ねた唇を引き剥がせるほど自分は強くできていない。
 ゆるく作られた腕の輪を壊そうと曹丕の胸元を手で押した。同時に目を見て抗議の意思を伝えようとしたけれども,そんなときだけ信じられないくらいやさしく笑っている曹丕の目に力が抜ける。それを謀ったかのように曹丕は司馬懿の唇を舌で一周するように舐めると,そのまま力が抜けた口を舌で抉じ開けて歯の根元を辿る。奥から歯よりも内側に入ってきた舌が喉元に触れて,司馬懿の体の力が抜ける。
 曹丕は満足したように一度舌を引き抜くと,脱力ゆえによろめいた司馬懿の体を,腰に回した腕できつく抱きしめる。
「お前が欲しい,司馬懿,私の傍を離れようという気さえ無くしてくれ」
 言いながら耳の裏から鎖骨までの首筋を下でたどられて,司馬懿はあぁ,と力の無い声で啼き,理性とのせめぎ合いに白旗を上げる予感を覚える。
 なんて強引な。
 けれども曹丕の思いが,そしてけして口にすることのないであろう司馬懿の思いが重なる。

 決して離れたくない。
 これが運命の絆ならば,たったこれだけの小さな夢のような交わりが運命の絆ならば。

「司馬懿,裏切るな,私を愛してくれ」
「ぁ,あ」
 打ち込まれて啼きながら曹丕が囁いた愛の言葉に,司馬懿はやはり泣きながらしか返せない。
 その声にならない声に宿る情を彼が汲み取って捕らえてくれたら良いのにと,白濁としていく意識の中で司馬懿に残された僅かな理性が涙を流した。

***

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08-01-04


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