Novel

君をこの手に

 資料室というところはいい。
 堆く積み上げられた本棚の中でさらに堆く積み上がった本の中に,曹丕は満足して腰を下ろしていた。
 本来一国の皇子がしばしば足を踏み入れるところではない。曹丕がそこにいる理由はただ一つ,かくれんぼだ。
 探さないでくださいと言わんばかりに思わせぶりに消える時間帯は,司馬懿が探しに来てくれるという自信の上に成り立っていることを,いい加減彼には気付かれているだろう。
 けれどもこちらも複雑な時期なのだ。
 父が倒れた。
 さほど長くないだろう。人が死ぬ気配というものはわかる。本当に終わる人は,たとえどれほど覇気を装っていても後がないことを知っている。父もそうだと曹丕は思っていた。

 資料室の扉が開く音がした。足音の重低で,大方の彼の状態はわかる。大きい音ではあるが間隔が一定でない。
 彼も少しは迷っているのだろうか。
「曹丕様」
 おられるのでしょう,とため息混じりに言われて,代わりにこちらもため息で返した。司馬懿はその音を聞き違える事なく,本の間に隠れた曹丕のところまでこつこつとやってくる。先ほどより足音は小さくなったけれど,規則性のなさは変わっていない。
「目を通していただかなくてはならない書簡」
「わかっている。もう,戻る」
 彼の言いかけたことを遮り,曹丕は目の前に仁王立ちした司馬懿を見上げる。どうしたのかと尋ねるような目が下りて来たが曹丕はその視線には答えず,彼の細い手首を乱暴に引き寄せる。
 何をなさいますかという甲高い非難と共に降って来た体を,曹丕はやさしく抱き寄せた。直前の乱暴さとの格差に着いていけないらしく虚を突かれた顔をした司馬懿に,曹丕は額を預ける。
「仲達は,私を置いていくのか」
「曹丕様」
「お前がどのような野望を持っていても私はそれを咎めない。私の目の黒いうちに私の傍を離れてもそれはお前の自由だ。けれども,私を置いていくのか」
「私が何処へ行くというのです」
 凍りついたように動かない司馬懿は口だけを動かした。額を彼に預けているから顔は見えないけれどもその声はひどく上滑りで,根拠もないけれども否定など決してしない叛意の存在を暗に肯定した。
 知っている。
 彼はいつかこの座を手にするのだろう。自分すら手にできるか不安定な,中原の主の座を得て君臨するだろう。
「それも似合うといっているだけだ」
「何がです」
 司馬懿は少しだけ手を動かした。自分の体を押しのけるのだろうと思ったけれども意外とそれはなく,代わりに司馬懿は背中に腕を回してきた。図らずも抱きかかえられるようになって曹丕は少し戸惑った。
「玉座に座るお前に,仕えてみたかった」
「何を仰います」
「父に仕えるのならばお前に仕えてみたかった」
 司馬懿はそこにきて曹丕が父親のことを口にしたので口を噤んだ。彼も死に対して希望的な観測を無駄にもつ人間ではないと思っている。
 そして司馬懿は自分の背中に回した手をゆるゆると撫でるように動かした。これには驚いて曹丕は顔を上げる。世にも複雑そうな顔をした司馬懿がそこにいた。父を亡くそうとする子供を,たとえるならば哀れむような,それにしてはつらそうな表情を浮かべた彼にどうしたのかと聞こうとしたら代わりに上に圧し掛かるようにされた。
「私は必ず貴方を君主にして見せます」
「司馬懿」
「それは信じていただきたいのです」
 彼は,自負があるのだと思う。おそらく曹操という人間よりもあるいはその息子よりも自分のほうがよほど君主にふさわしいと,そういう自負があるのだと思う。
 それは許されてしかるべきことだと曹丕は思う。
 自分たちはあまりにもいびつに何かを手に入れようとしている。あるいは司馬懿をそうしていびつに手に入れた。それはふさわしいのか,彼という器が自分を受け止めてくれることがふさわしいのか,曹丕は図りかねた。
 そんなことよりも胸の中で泣き声に近い声で細く誓ってくれた司馬懿を抱き返す。
「何故だ」
「貴方は私が仕えるに相応しい方だからです」
 自負を持ってなお,自分に仕える司馬懿の暗なる本心を暴き立ててみたいと思う。
 そこに自分にとって泣きたくなるほど切ない事象があればよい。
 抱き寄せることは許される。触れることは許される。皮の上ならば何をしても許されるけれども,その中に踏み込むことは許されるのだろうか。
「卑怯な男だ」
「何故です」
「こんなにも私に欲されておいて,まだそのように内側を隠すのだな」
「隠してなど」
 私の本心だけは貴方は聞き入れてくださらない。いつ裏切るか分からない者はなりませんか。

 遠くで昏い鐘の音が鳴った。

 あぁ,終わりが始まる。

 強引に奪った唇は,思ったよりも素直に応じた。舌を下唇に這わせ,思わず開いた相手の唇にそのまま舌を入れる。目を閉じるのは惜しいと思いながら司馬懿の表情に目を遣った。熱に浮かされたように涙を浮かべた目は性感ゆえか,あるいはそれ以外なのか。
「私にお前をくれ,仲達」
 口付けたまま呟く。初めてではない口付けは,それでもこんなに苦くて辛い。喪うものが重なるくらいならば,何も失わない方がよほど良いのに,それを誰も許さない。得てしまったこのうつくしいひとを,失うのが怖くて手に入れきれない。愛を囁くのが怖い。
「もとより,私はそのつもりです」
「嘘をつけ」
「ほら,また聞いてくださらない」
 吐き捨てて,司馬懿は曹丕の背に回していた腕に力を込めた。少しの諦めが混ざった細い声が本音だったらどれほど喜ばしいだろう。願いながらの不可能を曹丕は辛いとは思わなかった。
「あの鐘は,喪の鐘だろうか」
「単に夕刻でございましょう。書簡,お忘れですか」
 言われて舌打ちする。そして自分が立ち上がろうとしても膝の上から動かない司馬懿に一瞬全身でいとしさを感じた。強く抱きしめると,司馬懿の腕がおずおずと自分を抱き返す。
「曹丕様」
「なんだ」
「私は貴方のものです。貴方さえ生きていれば,私は曹家に逆らうなどありえませぬ」
「私が居なければどうなるのだ」
「保証いたしませぬ」
 司馬懿が真面目くさった顔をして言うので,曹丕は好い気にだけはなった。
 そして立ち上がった彼に釣られて立ち上がる。
 彼のそのうつくしさが自分を捕らえて放さない。
 あぁ,自分はすっかり彼のものになってしまったのに,何故彼はこんなに遠く思うのだろう。

***

どっちも片思いのつもりでベタ惚れ。君は相手のことと君主の座との掛詞。
07-12-07


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