Novel

キャラメルドロップ
- 「あんたの全てはあたしが盗んであげるから,と言いたいけどまだ言えない」

「おはようございまーす」
 くのいちが生徒会室のドアをがらがらと開けると,そこには珍しく伊達一人しかいなかった。おはよう,と言いながら彼はちらりと顔を上げる。その顔には明らかに貴様の連れはどうしたと書いてあるがそんなことは知ったものではない。隣同士だと言うのに同伴出勤を断られているのはこっちの方だ,察しろ。
「今日は何かイベントがあるのか,ホワイトデー以外」
「以外っていうけど,一大イベントなんじゃないっすか? 男子にとっては」
 定位置にカバンを置き,コートを脱ぐ。パイプ椅子に腰掛けると,まぁ貴様にはいつも世話になっているしその世話に免じてバレンタインに貰ったものもあるからな,とよくわからない口上とともに包みが手渡される。
「え,伊達先輩手作りィ?」
「これでも菓子作りが趣味でな」
「そんなの女子に見せびらかしたら,逆にモテモテですぜィ旦那」
「間に合ってる」
「へぇ」
 追求してやろうかと思ったが,そういえば弓道部って変なところでそもそもコーチもホモだしな,と追求しないほうが自分のためだと判断したくのいちは黙る。じゃぁ伊達先輩はあたしの義理チョコ手抜きだって知ってるんじゃん,と呟くと,でもなかなか良い配合だったぞ,と訳知り顔で言われる。
「本命にもアレなのか?」
「まさか。本命は家がお隣さんだから持って行くよ。ちゃんとしたやつ」
「肝心の本命はどうしたんだ?」
「本命にでも返してるんじゃない」
 茶化そうとして,思ったよりも心に自分で棘を刺してしまった。思わぬ自分の言葉に拠るダメージをうつむいてやり過ごす。本命などいるはずがないと思う。たぶんだけれども。
 伊達はくのいちが思わぬところで落ち込んでいるのに直面して,まぁ儂はアイツがこの場に来てくれたらそれで良いのだが,と申し訳なさそうに言う。気を使わせるのは気がとがめるので,あ,先生と会長は? と尋ねて,尋ねてから仕方のないことを尋ねたことを思い出す。
「2人でどこかにしけこんでいるのではないか?」
「愚問でしたぁ」
「では今朝の例会はもう良いか」
「そう思いまーす」
 本当は,朝のこの短い時間は彼と共有できる短い時間だから,手放したくは無い。
 彼は二年で自分は一年で。このどうしようもない差だけはどうしたって埋まらない。
 2人して鞄に荷物をまとめて立ち上がる。こんな生徒会で良いのかな,と心にも無いことを思っていると,あ,と不意に伊達が下を見下ろす。その声に釣られる形で,くのいちはパイプ椅子から立ち上がり裏庭を見下ろす。
 今日という日,誰も鉢合わせないでこの場所が使われないなんてありえない,まさにホワイトデーに最適なその場所で,ありえないと思った事態が,眼下で繰り広げられていたことに驚く。幸村が女子と話していた。明らかに何かを手渡した後だった。あれ弓道場で見たことある,女子部の本多だな,と伊達が気まずそうに呟くより先に,自分が当然に得ていると思っていた特権を実際は掴んでなどいなかった衝撃でくのいちは黙り込む。
「伊達先輩,ちょっと,すみません」
 言いながら,くのいちはパイプ椅子にがたんと座り込む。馬鹿にしやがって,と呟いた声が伊達には届いていないと良い。10秒ほど俯いて,吹っ切れたように顔を上げる。伊達が気遣ってなにか言おうとしたことは,首を振って遮る。
「別にこれくらいで」
「くのいち」
「幸村さまはあたしから離れられなさ過ぎなんだよ。これで丁度良い」
 困ったように黙りこくってくれる彼に心配をかけていることのほうが気まずく思えて,くのいちは大丈夫です,ありがとう先輩と言って立ち上がる。予想外の事態に立ち上がるときに足をぶつけ蹲る。いよいよ彼に心配をかけてしまうとうんざりしたところに,外から足音がした。ゆったりした靴音と,几帳面な足音が揃ってくる。今更来ましたね先輩,と呟くと,伊達はそうだな,と手を差し伸べてくれる。礼を言って立ち上がるのと,生徒会室の扉が開くのが同時だった。
「くのいち,大丈夫か」
「会長,どしたんです。ちょっと転んだだけですよ」
「そんな顔には見えないけど」
 石田が信じられないようなことを言って,苦笑いを浮かべて返すと,どうしようもなく悪い大人の代表のような島がちょっかいを掛けてくる。それに答えるだけの精神的な余裕は無かった。立ち上がったのはいいけれども俯いた自分に島がさすがに言い過ぎたかと言う顔をして石田がその足を踏むのが見えた。足以外誰かの顔など見たら,何を言ってしまうか分からない。
「…絶対,大丈夫だと思ったんだけどな」
 握り締めた拳が痛い。自分は泣くかと思ったけれども,涙すら出なかった。

 昼休みまで上の空で過ごした。上の空に選んだのは数学の問題集。えぇ,くの,気持ち悪いと同級生に言われたけれども,今日一日は放っておいて頂戴,と言う。前にHRの教師が立とうが,英語の教師が立とうが,数学の教師が立とうが,古典の教師が立とうが,関係なく一心不乱に数学の問題集を解く。テスト範囲をひとしきり終える勢いでとき終わると,一つ深いため息を吐く。昼休みになって,漸く顔を上げたくのいちに,同級生はお昼食べる? と誘ってくれる。
「ありがと。食べるわ」
 けれども弁当箱を開いても一向に食欲がわかず,終いに悪いけどやっぱパス,と呟くと机に突っ伏す。大丈夫保健室行く? とたずねてくれる声さえわずらわしいけれども,今はまだ大丈夫,と答える。参った。こんなに落ち込むのは予想外だ。
 あぁ,こういうのが初恋なのか。
 暫く顔も見たくないなー,昔は毎日一緒だったのになー,と思うと,急に廊下から男子に名前を呼ばれた。寝ているふりを通そうかと思ったけれども,生徒会の先輩だぜーと言われると断るに断れない。仕方なく立ち上がると,伊達と石田が並んで立っていた。あぁこれ1年生の教室に越させるまで心配させちゃったよ,とくのいちは頭痛を感じる。
 けれどもその頭痛は随分と重かった。
(あぁ立ちくらみだわ)
 控えめに言ってもそんじょそこらの女子よりは絶対に軽いつもりの体が傾いだ。視界の隅でくの,と同級生が呼ぶのが聞こえる。精々机に突っ込まないようにしたいと思うと,それより早く逞しい体に抱きとめられた。
「…え」
「大丈夫か」
 いや,これ。
 思いっきり自分のクラスなんですけど。
 え,沈黙? どういうこと?
 めっちゃ視線浴びてる。気まずい。
 冷静に,明滅する視界で彼を捉える。ここ3年は見たことの無いほど近くに彼の顔があった。いや,これ,近いでしょ,幸村さま,と他に聞こえないように呟こうとしたけれども,幸村の腕にそのまま掴まれてずるずると廊下まで連れて行かれる。
「いや,大丈夫じゃない,これ評判として大丈夫じゃない」
「馬鹿」
 低い声で怒られた。
 そんな顔色で評判など気にしている場合かと続けるその精悍な顔が近すぎて,満足に呼吸が出来そうにない。
「儂は朝渡したからな,真田,ここまで貴様に付き合ってやったのだ,あとはどうにかしろ」
「左近の分もだ」
 腕の中にいる自分に伊達は声だけかけて,石田は手首になにやら高級菓子店の袋を提げさせる。ってことは共同出資かと普段ならからかうのだけれども,本気でずるずる引きずられると幸村の腕に抵抗できるはずも無い。ありがとうございまーす会長ーと間延びした声で言いながら,くのいちは幸村の表情を窺う。
 見たことの無い顔をしていた。
 しいて言うならば,小さい時にブランコから落ちた自分をおぶってくれたときに浮かべていた,怒っているのかとたずねたら怒ってなどおらぬと答え,じゃあどうしてそんな顔をしているのとたずねると黙って頭をわしゃわしゃと掻き撫でられたその表情に近いような気がした。
 会長と会計が席をはずしている生徒会室は,書記と副会長しか居なくても可笑しくない。乱暴に幹部だけに持たされている鍵を開けて自分を生徒会室の中に押し込んだ彼は,後ろ手にドアを閉めて鍵を掛けた。ずるずると引きずりこまれて,あぁこれは事実にあること無いこと尾ひれがついて残り僅かな3学期の間学校中の話題になると思った。生徒会のイケメン3人と渡り合う1年生女子だなんて,まるで少女マンガの設定ではないか。
 そう思わなければならないほどくのいちは動揺していた。
 いざとなると動揺するものだ。普段あれだけ押しているのに。
「ゆきむら,さま」
 声が思ったよりもかすれる。彼は,会議用の長机に自分の体を押し付ける。え,これほんと,なんていう少女マンガとたずねるより早く,幸村がこつんと額を自分の額に押し付けてきた。
「済まぬ。稲殿は,兄上の恋人なのだ。兄上が大学をどうしても休めないと言うから預かってきたのだ。誤解をさせたくないから目立たない場所を選んだつもりだったが,伊達からえらく叱られた。くのいちにあんな顔をさせるなんて生徒会幹部失格だと」
 目の前にある逞しい胸板の,学ランを思わず掴む。
 幸村は随分と動転しているようだった。自分も死ぬほど動転したのだけれども,彼がそうやっていると精神的に自分の方がよほど成熟していた今までの期間を思い出す。午前中に酷使した右手だけを学ランから離し彼の頬に添えて,分かったよ,幸村さま,信之さまのためだったんだね,と俯く顔を上げさせる。
 自分の,自分で言うのもなんだが細い手が,幸村の気付けば信じられないほど逞しくなった手の平に包み込まれる。
 心臓が跳ね上がる。
「指,ペンだこが」
「あ,うん,ずっと問題集解いてたから」
「そなたが勉強を」
「何にも手につかなくてね」
 肩をすくめて笑うと,そんなに思いつめさせてしまったのかと小さな声で呟くと同時に,慣れないペンだこに慣れないキスをされた。
 信じられない思いで弾かれたように顔を上げると,見たことも無い顔がまたそこにあった。
 怒っているように張り詰めているけれども,その裏で自分を随分といたわってくれる顔。
「こんなものだが」
 目線を逸らさないで,ポケットから彼が何かを取り出した。透明のセロハンに包まれたあまいあまい飴は,自分が小さい頃好き好んでよく食べていたもので,慣れた手つきでほとんどかちあわせた視線をはずすことなく彼はその袋を開けた。動けないままの自分のくちびるに,彼が竹刀でたこだらけになった節くれだった指で飴をひとつ運んでくる。誘われるようにおずおずとそれを口にすると,そのままひどくかさついた彼の,何かが自分の唇に重なった。

***

いざというとき反撃されて身動き取れなくなるのはくのいちのほうだといい。
本編だと絶対手を出さなさそうな幸村さまも男子高校生だとねぇ,ほら。
2008-03-04


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