Novel

不意の味見
- 「随分と甘い目でこちらを見るものだ,ならば食べるのも悪くない」

「では凌公績,この問の式を」
 高校教師の中で,無駄にフルネームで生徒を呼ぶ教師がさほど多いとは思えない。司馬はそれを通していたが,彼の中では合理的な癖だった。なんと言っても彼自身が八人兄弟の中に育っているのだ。
 大部分の生徒が司馬仲達を少し指名されたくない化学教師として数えているのを,曹子桓は面白いことだと思っている。現に指名された凌はあからさまにげっ,と言う顔をして,隣の星彩に答えを求めたが軽くいなされた。
「すいません,聞いてませんでした」
「馬鹿め」
 なんといってもこの発言である。
 教師にしておくのにいいのか,と思われる発言も,生徒の大多数は慣れてしまったと軽く流す。曹は凌に同情だけはしておく。いままでのところの授業を真面目に聞いていただけでは足りない応用問題だ。単に彼が居眠りをしていたから指名しただけだろう。
 彼もなかなか根性のひね曲がったことをする。
「このような先ほどまでの応用で解くことが出来る問題が出来ないようでは,二次試験はおろかセンターすら拙いぞ」
 小言を並べながら司馬は黒板に流麗な字を並べる。凌は一度肩をすくめて,シャープペンシルを手に取った。

 実際,司馬の評判は悪くない。
 とかく口が悪い。冷たい。
 しかし馬鹿めと罵りながら絶対に問題が解けるまで生徒に付き合うので,生徒の成績の底上げには一役買っていた。三国高校の化学のレベルを高めたのは彼だと曹の父である理事長も言っている。もっとも,予備校講師だった彼を教師として引き抜いたときの司馬の不満に比べればその評価は足りないくらいかもしれない。
 いずれにしてもその司馬が住み込みで家庭教師としてついている曹の成績が良いのは止むを得ないだろう。
 曹は現在高校から5駅ほど離れた,総合大学のある町に暮らしている。高校生にしては珍しいアパート暮らしだ。ちょっとした家出で,しかしその家賃や生活費を出しているのは親だから偉そうに言えた義理ではない。まして教育係として司馬が親公認で同居しているので自立した生活とは到底言えない。
 それでも僅かでもいいから親元を離れたいと望んだ曹自身,そろそろ子供過ぎる振る舞いを慎むべきかとは思っている。すぐに果たせるかは分からないが。
 何よりも先ず司馬を口説き落とさないことには。曹は思いながら前で講義をする司馬に見入る。

 式を書きながら司馬はいちいち振り返り,生徒の理解度を確かめながらいくつか解説を加える。酸化剤と酸化されるという言葉の関係,化学Tで扱った範囲を忘れてしまっている馬鹿はいないだろうな,と言いながらわざわざその言葉の解説を加えているあたりが,面倒見のいい司馬らしくて曹は笑いをかみ殺した。
 凌がシャープペンシルでこつこつと机を叩きながらなるほどねぇと頷くのを横目で見ながら,曹は自分がノートに作っていた式を確かめる。問題ない。
 司馬は自分を当てても正解しか言わず面白くないからといって滅多に授業中に当てたりしない。それは当然だろう,予習だと称して勉強させられるこちらの身にもなって欲しい。
 大多数の生徒が司馬の文字を写すのに必死だ。司馬は,写し終わった人から問題集の45ページを開いて問4を解けと指示を出している。昨夜に予習した問題だから,曹はこれも頬杖をついて30秒弱でさらさらと解き終える。

『酸化剤の役割は』
『相手を酸化させて電子を与えるのだろう。自身の電子を放出するから自分は還元される』
『よく覚えておられる』
 司馬は部屋では自分が理事の息子だからという理由で敬語を使う。学校ではさすがに他の生徒と過度の区別をつけてはいけないという理由からか普通の生徒と同じように話すが,二人になると必ずといっていいほど敬語を使う。曹としては若干の不満がある。
 いつか自分が大学を受験して,そのとき彼は何処にいるのだろうか。彼との同居を崩したくないので,曹は自分の父親が理事を勤める学校法人の大学(すなわち,彼のアパートのすぐ目の前にあり三国高校からの推薦枠も掃いて捨てるほどある遠呂智大である)でも良いかと思っているが,司馬はそれに反対している。
『あなたほど物覚えの良い,理解の早い方ならば,当然旧帝大を狙えば宜しい』
 昨夜も司馬はそう言った。
 旧帝大で現在の住処から通うことが出来るのは東大しかないだろうが,それには合理的に考えてもっと通いやすいところへ移住するのが普通だ。曹はそれを望まず,適当に関東にある名前のある私学でもいいと思っているのだが,私大を出ている司馬の国公立大コンプレックスはひどく強い。
『だったらお前のついてきてくれる大学でなければいやだ』
『な,にを言っておられます』
 試しに本音に乗せて我侭を言ってみると,見る見るうちに白い肌が真っ赤に染まって彼の動揺を露わにした。恐らく,彼も多少は絆されてくれているのだと思いたい。ただ単に年下男のアプローチに参っているだけなのだろうか。まぁそれはそれで自分の行動が功を奏しているので良いのだが,できることならば少しは告白に対してのリアクションをしてほしいものだと曹は我侭に思う。
 昨日は昨日でそれっきり司馬が強引に国公立大のいいところを並び立てて話題をそらしたので,曹も深追いしなかった。しかし毎度毎度この調子で逃げられては曹も参ってくる。

 解き終わったので正当に教卓に立つ教師を見る。彼はしばらく教室の様子を見ていたが,曹の視線に気付いたのか首を傾げてなにか,と問い返してきた。
 鬼教師司馬。同居していることは秘密だが,こうも教室では普通の教師と生徒がするよりも濃密なコミュニケーションを取られるとその気になってしまう。
 試しに視線をそらしてみると,意外と彼は乗ってきた。教壇を降りて,かつかつと音をわざとらしくさせながら生徒たちの机の間を回る。先ほど指名した凌の前では立ち止まり特に念入りにノートを覗き込むと,お前はここを直すと良い,と小声で声を掛けた。
 そのわざとらしい動機に巻き込まれた凌に今度は心の中で謝辞を述べて,曹は当然のように傍にやってきた司馬からわざと視線を逸らした。なんとなく追いすがる視線を感じ,引き込んでから視線を絡める。同時に他の生徒に見えないように指先で彼の指に触れると,司馬が小さく息を呑んだのが分かった。

「逃げられると思うな」
 ああ,その息を呑んで僅かに開いた口を口で塞ぎたい。

 言おうかと思ったけれども,誰かに聞かれてはそれこそ司馬に逃げられてしまうので,ただ彼の指が逃げる前に強く絡め,そして遠くで上がった先生,という声を契機に離す。
 座っているから下から見上げた司馬の顔は,昨日よりもずっと赤かった。
 ただ明らかに凌を相手にしているときよりも眦が下がっていて気分を良くする。
 それが何かは分からない。けれども,拒否ではないとだけは願っている。むしろ下がった眦が示している意味が自分にとって都合が良いものだといいと一瞬妄想して,曹は口元が緩むのを引き締める。
 分かっているなら逃げないでほしいものだ。
 司馬の指は冷たいのに少し汗ばんでいて,きっと甘いのだろうと曹は思った。

***

高校生ってこんなこと考えてばっかりで可愛らしいと思います。いっそ中学生にしたい。でも子桓さまが中学生ってちょっとむr(殴)
2007-12-03


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