Novel

今生の別れみたいなものを今感じてる

 外ではざぁざぁと音を立てて雨が降っていた。地面にぽつりぽつり雨粒がたまるのと比例するかのように,副長室の灰皿にも吸殻がたまる。澱んだ空気の中で共に仕事をしている山崎はすっかり慣れてしまっているらしく,時々灰皿に目をやっては立ち上がり,外に出て中味を片付けてくる。そうやって彼が障子を開けるときだけ澱んだ煙が風に乗って流れる。その様子を土方は何故かいとおしく思う。
 伊東をクロだと直感で判断してから山崎にその証拠を掴ませるまで,もっとも危険だったのは伊東の交友の幅を知ることだったと山崎は話した。河上が出た時点で鬼兵隊とのつながりが露呈し,鬼兵隊とのつながりが露呈した時点で春雨の存在が確認できるわけだから,山崎が断片的に得た情報を組み合わせれば尻尾くらいは掴めるかも知れない。2人が行っているのは山崎のメモを精査して少しでもクロを見つけられないか,という作業だった。
 書類をぱさりと机に置くと,ふわりと灰が舞い上がった。舌打ちすると山崎は顔を上げて苦笑する。窓の外をことことと叩く雨音が彼の心音より喧しい。貫通した傷が急所からずれていたのは果たして態となのか分からないが,これが急所より少し下に刀をずらしてくれたんです,と顔色の薄い彼が見せた血まみれのキャスターの箱を見たときに言い知れぬ腹立たしさを感じたのも確かだ。

 価値観は変動するものだ。団子屋から屯所への道のりを行きながら土方は思った。もちろん今後の人生のことしかり,今から戻ろうとする集団のことしかり,けれどもそれよりもなによりも,自分がまさかあの生き物にここまで入れ込むだなんて思わなかった。薄くしか記憶にない刀の呪いの間にでも,自分の思考の中に深く食い込んできた名前。その名前と情報がかみ合った瞬間に,目の前の隊士たちに対して沸きあがったのは不信感だった。彼或いは自分が陥った状況を察し,もし自分が伊東を張れといわなければ,もし自分が下らない呪いなどにとらわれなければ,すぐに傍に行って抱き寄せるはずなのに,自分は何をしているのかと思った瞬間だけ思考のもやがすべて晴れた。だから相手の隊士たちが寄ってたかったとしても全員山崎に敵うはずがないと分かったし,山崎が死ぬはずがないと確信できた。
 過度の信頼がいつか貴方を害すると山崎はいつか言った。
 大いに結構だと思った。
 害されていることなど誰より自分が察している。どんな顔をして会うかだけが頭が痛かった。久方ぶりに吸う煙草は妙にぴりりと辛くて,それでも山崎はもっと痛い思いをしたのだと思うと,妙に切ない気分になって,それでも彼に自分の独占欲を高じさせてたとえば監察を止めろといえばそれこそ彼は腹を掻っ捌くだろうし,なによりそれを自分だって望んでいない。山崎は監察で,いかに真選組の副長にとって有益な情報をもたらすかに命を賭けているわけだし,自分が見たいのもそういう山崎だと思うと独占欲も考え物だと土方は苦笑いをした。自販機の前で立ち止まると,煙ばかりだと山崎が文句を言っていた煙草は止めて,もう一回り重い煙草を買った。その方がより深く,山崎が自分を害するような気がした。

 雨音と燃やされた煙草の臭いが重い。灰皿を交換するため助勤の机から立ち上がって寄ってきた彼が膝を折った段階で,その手首を強引に引いた。多少バランスを崩しながらも座ると,山崎は不服そうに唇を尖らす。
「何ですか,吃驚するじゃないですか」
 その言い分も聞きなれた声も,若し仮に自分が戻れないままだったならばもう拝めなかったのだろうかと思うとたまらなかった。自分と居る時だけキャスターを吹かす彼の中に例え煙が入っていかなくても,自分が彼を置いていったり彼においていかれようものならばどれだけ虚しいか,そんなことばかり考える。
「今以上の距離は,作らせねェからな」
 座らせたまま強引に腕を引いて抱き寄せる。とん,と軽い音を立てて胸の中に納まった彼は,雨音を聞きながら世にも複雑そうな表情をしていた。何だ,と目で問うと,なんて恥ずかしいこというんですかと機嫌が悪そうに呟く。けれどもその表情は何故か明るい。
「貴方がいればそれでいい,だなんてぞっとしますよ」
 背中に腕が回る。明るくて,そして少しだけ湿った声が山崎らしいと思った。
 彼が何を考えているか最後の最後まで知っているわけではない。
 だけれども,だからこそ,自分が山崎に言ってやれることだってあるのだ。
「テメェは泣かせない」
 特徴らしい特徴もないが,大きく丸いつり目が一瞬大きく見開かれ,そして奥の方から水気を乗せて少しだけ揺れた。何を考えているのか分からないけれども,彼を泣かせたくはないのは紛れもない真実だ。そして何を考えているか分からないからこそ無責任に言い放つことができる言葉でもあって,そうすると山崎は案の定,下らない,という顔をして笑った。
「泣きませんよ」
「泣きながら言うな」
「嘘泣きです」
 腕の中に山崎の傷がまだふさがっていないことも知っている。
 もしかしたらこの大雨は山崎の傷を苛んでいるかもしれない。
 けれども山崎はその傷さえもどうでもいいような顔をして土方にしがみついてきた。こんな生き物を世の中に放っていることを後悔したことは一度だってない。
 ただいつも,少し心配しているだけだ。
「俺も,副長を1人にはさせません」
 聞いた瞬間感じたこともないような力が奥底からやって来て,堪らず山崎を抱き寄せた。雨はやまない。ここは連綿と続く世界の,現世の中で,山崎が急に何か姿を変えるわけでもない。だけれども見捨てられないことを知って,惹かれあえばあうほど,心を奪って奪われるほど,この雨さえも世界さえも美しく,無意味で,ただひたすら2人だけは大丈夫な気がするのだ。
「好きなだけ俺を害しろ。そして俺の傍にいろ。傍に居てやるから」
 呟く言葉が雨音にかき消される。山崎は黙って土方の背に回した腕に力をこめた。

***

ああ,まとまらない!!台風の大雨の中でたまらず書き上げました。
タネ子さんのお誕生日に捧げます。
08-06-03


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