Novel

キスと毒薬

 これが最後だ,と彼は思う。
 いつもいつも。
 これが最後だ。この煙草のにおいに焦がれるのも,あの瞳孔の開いた冷たい目に惹かれるのも。ときどき戯れに触れられるのも,そうかと思ったら自分を態と焦らすように別の女とこれ見よがしに歩いてみるのを見て彼をそしてその女を嬲り殺したい気持ちになるのも。
 これが最後,だったら良い。
「山崎,煙草あったか?」
「あと半カートンです」
 人を呼んで置いて文机から顔も上げない態度は上出来だ。けれども自分は今晩から潜入に入るから,用件があるのならば思いついた段階で言っておかなければならないのだろう。山崎は好意的に解釈する。机の隅で灰皿の中身が山になっている。あとで片づけをしなければと考える。
「あと3日か。それでお前は何時から潜入だ?」
「今夜22時からです」
「じゃ,煙草買って来い」
「3日後に誰かに行かせればいいじゃないですか」
「テメェの買ってきた煙草の方が美味ェんだよ」
 そう,彼の言いなりになって煙草を仕方無しに買いに行くのもこれが最後。
 仕事を期待していたわけでもないけれども,それでも呼ばれて働くのもこれで最後。
 脈のあるのか無いのか分からない言葉に流されるのもこれで最後。
「しょうがないですね…財布勝手に持って行きますよ」
「汁粉も」
「は?」
「はじゃねぇ。コンビニで売ってる,熱湯1分の」
「はぁ。珍しいですね。副長がそんなん所望されるなんて」
「がたがた言ってねぇで行って来い」
「はいよっ」
 山崎は土方の上着のポケットから財布を取り出し,屯所から徒歩20秒のコンビニへと駆け出す。息は白く,あぁこんな日はマヨ命の副長もお汁粉なんて人並みの願望を持つんだ,でもお汁粉もマヨ塗れかな,だったら嫌だな,とか思っていると,コンビニには直ぐに着く。
 顔見知りになったバイトに会釈をする。店員と仲良くなるとコンビニはコンビニの用を為さない。色々なものを買いづらくなる。たとえば土方が夜に急にその気になって,自分も彼も持ち合わせがないとき,このコンビニでゴムを買おうとは思わない。徒歩3分のもっと死んだような目をしているバイトが居るコンビニまで態々買いに走る。これから自分が挿入ようとしている相手にゴムを買いに行かせる土方の意図がわからないでいらいらすることが多い。今も,そんな彼を思い出していらいらする。
 戯れにしてはタチが悪いのだ。
 彼は異常にモテる。マヨでオチがつくことを前提にしても,言い寄ってくる女性の供給が多すぎて需要が全然足りない(挙句に自分みたいな身内に手を出しているから,供給過多なんてもんじゃない,そもそも需要があるのかすら明らかでない)。何が悔しいって自分の思いを手に取るように土方が楽しんでいることだ。彼は自分が入隊した時からずっと自分が彼に憧れていることを知っている。知られているくらいあからさまに懐いてしまった自分が悪いことは認めよう。だからといって手を出す理由になるかといえばそれはまた別口だ。
 初めてのときは舞い上がっていたからそれでも良いなんて思っていた。
 殊勝な心がけだ。
 けれども毎日毎日顔を突き合わせる相手に,それこそ愛情とかそんなのを一切感じられない相手に,戯れに触れられていると思いの外神経が磨り減った。体は楽ではないし,何より心が楽でない。負担にならないように,抱かれる時は意図して意識していないように振舞った。こんなことをしても,別に貴方を恨んだりしない,とか。恨むどころじゃなく想っているのに。
 汁粉を手に持って,そして顔なじみのバイトにいつもの,カートンでください,というと,大変ですね,と苦笑されてしまった。自分も苦笑しておく。君の想像を絶する大変さなんだよ。片思いの相手に袖にされたり袖の中に抱きこまれたり。愛想よく会話をする気力は無かったので,ありがとう,とだけ言ってコンビニを出る。
 息は白い。
 屯所まで徒歩20秒の距離を駆けて行く。
 あれでいて自分が傍に居ない時間が長いと機嫌が悪いとか,期待させるなと山崎は胸のうちで毒づく。副長室が近づくと足音は態と殺す。自分が戻ってきたことを察する程度で,自分にこれと言って意識を抱かせない程度。邪魔したくない,だなんて自分が純情すぎてうんざりする。
「副長,山崎只今戻りました」
「おう」
 副長室のふすまを開けると,中は出掛ける前と同じく煙草くさかった。
「財布戻しときますね。レシート入ってます」
「汁粉あったか」
「えぇ。カートン,机の横でいいですか」
「ああ,んで,湯はそこにポットあんだろ」
 あんだろってか,そのポットを支度しているのも自分ですけどね。
 山崎は呟きながら,今作りますか? とたずねる。返事が無いので肯定と取り,びりびりとビニールを剥いて汁粉を作り始める。こういうときの彼の本音は上手く読めない。どうしたら彼の機嫌を損ねないかは分かるのだけれども,何を考えてこんなことをさせるのかはわからない。まぁきっと,寒いから汁粉でも食いたくなったのだろう。
「出来ましたよ」
「食え」
「は?」
「この寒い中買出しいったんだ。労われとけ」
 あー畜生甘い匂いがするぜ,と言いながら,土方は新しい煙草に火をつける。
 ずるい。
 使うならば徹底的に使えばいい。隙を見せなければいい。そうすれば自分も本当にこれを最後に出来るのに,期待させるから,隙を見せるから,自分の憧れの人が手を伸ばしてくれるような気がするから,止められないのだ。
「じゃ,遠慮なく」
 コンビニの袋から割り箸を取り出す。
 冷え切っていた体に汁粉は良く染み渡る。彼が煙草を一本吸い終わる間に,自分も小さなカップを完食してしまった。これで今日の潜入も頑張れそうだなんて思うけなげさが,自分が彼に完敗する敗因だと思う。
「山崎」
「はい」
 ここへきて彼は初めて文机から顔を上げて振り返った。伝達事項が今更増えるわけでもあるまい。山崎は拳を握り締める。これが最後,なんてできるはずもない。
 近づいてくる顔に逆らわず唇を触れ合わせる。
「甘っ」
「煙草くさっ」
「うるせぇな」
 彼のたくましい腕が自分の首の後ろに回る。あぁ,また囚われた。
「離れよう,なんて思うなよ」
 何故見抜かれる。
 何故拒めない。
 答えなど見出している。
 ただ自分がこんなに体を張って恋をしているのに,返ってくるものが無いのが悔しいんですよとは言えずに,山崎はその恋が零れ落ちないように態と目を細めた。
 キスと一緒に副流煙が全身の血管を一度に巡る。
 土方の腕に力がこもったことに,山崎は気付かなかった。

***

熱湯一分のカップ汁粉は管理人の好物です。
08-02-29


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