Novel

傘の花

 彼が潜入から戻ってきた時,冬とは思えないほどすべてを洗い流す激しい雨が降っていた。
「あの呉服屋,囲っています」
 それだけで十分だった。
 だから女装を解きたいと言って副長室を辞そうとした彼を引き止める必要も,ましてその手首を掴んで引き倒す必要だって本当はなかった。それでも,彼が何かを負わされて帰ってきた,そのどことなく陰の満ちる暗い潤んだ瞳を見て平然としていられるほど自分が出来ていないことは,よくわかっている。
 今回は髪を結う鬘はつけずに,付け毛を使って裾の髪を伸ばして見せているだけだったが,呉服屋に潜入するということで衣には山崎は随分と気を使っていた。地毛に付け毛を巻き込んで作った小さな団子にさした簪は,いつか自分が潜入時に使えるようにと作ってやった仕込みの毒針つきで,こんなものを律儀に使ってくれる彼を思わず抱きしめる。
「副長,息できない」
「こんな傷,つけてきやがって」
 思うよりも強い力で抱きしめてしまい,山崎が腕の中で小さく文句をたれる。けれどもそれよりもずっと辛いのは,山崎が頬に負ってきた傷だった。その傷はたいしたことは無く,監察だからと彼が気を特に使う見た目にあとあとまで影響を及ぼすようなものではないのは分かっているけれども,彼がそうして傷を負ってまで情報を得て来ることに,自分で与えた使命が果たして正しいのかと時々不安に思う。
「仕事ですから」
 それより早く動かないと,アイツら俺の行動を不審に思います。
 攘夷を匿っている奴らの情報を獲る代わりに,彼は呉服屋の御曹司を誑かした。珍しく脱出で下手を踏んだ山崎は,御曹司に酷い女だとののしられながら土方に貰った物よりもずっと高価な簪を叩きつけられたらしい。山崎の瞳はそういう類のことに案外弱い。
 自分がやった簪を取り,抱きしめていた腕を解くと髪をぐしゃぐしゃとかき回す。押し倒された形になっている山崎は潤んだ目を細めながら髪裾につけていた付け毛をはずしていく。女装の時には態とその素が薄い顔にしっかりと化粧を描きこむ彼の女の匂いは暫く消えなさそうで,頬のかき傷も直ぐには消えなさそうで,土方は山崎の頭を抱え込んでいた手をゆっくりと滑らせて,そのフェイスラインをいつくしむように撫でる。
 山崎は潤んだ瞳を閉ざして黙って赤く塗った薄い唇を寄せる。
 何も考えずその薄い唇に自分の唇を重ねる。彼の口の中は随分と冷たく乾いていて,潤したくてたまらなくて夢中で貪る。閉じていたまぶたが一度ぴくんと跳ねるのを見て,誑かした御曹司にもこんな顔を見せたのだとしたら自分の方が持たないと残念なことを察した。山崎がくぐもった喉の奥で,ひじかたさん,そろそろしごと,と言うから仕方なく離す。
「口紅が」
 山崎は人差し指で自分の下から黙って不要に潤んだ唇を辿る。わざとこのまま出て呉服屋の御曹司に見せつけようかと思ったけれども,討ち入りには沖田らも出るから控えることにした。
「屋敷の構造がからくりを含んでやや厄介です。俺も同行していいですか」
「女の匂いは消して来いよ」
「これは消えませんかね」
 腕の下から山崎の体を開放する。女のものである衣の裾から割って見える山崎の足はきちんと無駄毛を剃ってあって,あとでしっかり堪能しようと思ってじっと眺める。すると山崎がこれと言って指差した顔の傷のことがさほど気にならなくなって良かった。山崎は自分の視線を追って,へんたい,と小声で笑う。変態に好かれているお前もな,と囁くと,山崎は案の定へらりと笑った。外の雨はまだ暗く思いけれども,山崎の瞳の色は少しだけ明るくなっている。

「御用改めだ!」
 雨は上がった。
 山崎がつい6時間ほど前まで潜んでいた呉服屋は,御曹司が女に乱されたということに取り乱していて,攘夷の輩を匿うということをすっかり忘れていたらしい。押し寄せた真選組の隊士たちに追い込まれ次々と隠し部屋に逃げ込み,そして山崎の冷静な指示とともに切り込む男達によって逆に袋の鼠へと化す。
「何故,何故ここが分かった」
 悲惨な声で叫ぶ男達は山崎の方を見て息を呑む。特徴が無い顔でいて割り合いに目じりが吊っている山崎と,その頬のかき傷で全てを察するのだろう。若様お逃げを等といいながら引き立てられていく男を見ながら,山崎は不意に口元を緩めて笑った。土方はその笑顔を隣で見ながら,思う。こいつも沖田や自分と同じように,人切りの血を持っているのだろう。もしかしたらその血は自分よりあるいは沖田よりも性質が悪いのかもしれない。
「副長,奥の床の間,地下があります。御曹司様も店主もそこかと」
「分かった。二番隊,三番隊,この階の捜索を,一番隊は俺に続け!」
 山崎は自分に残りの隠し部屋の情報を教えると,真っ先に刀に手をかけたまま奥の間に入る。そして床の間の仕掛けを解こうとして屈み,そして軽やかに手を畳に着いて跳んだ。つい寸前まで山崎が仕掛けを解くために居た場所に,地下から槍が突き立てられている。
「危ないなぁ,若様」
 山崎が零した科のある声に,その瞬間ほんとうにこいつは傾城になれると察した。
 その挑発に乗って仕掛けは下から開いた。山崎に女の匂いは消して来いと言ったろ,とたしなめるように言うと,だってアイツ土方さんに頂いた簪壊そうとしたんですから,と今度はいつもの男の声で返してきた。
 地下から飛び出してきた男が,迷わず山崎に向かって来る刀は彼が構える型で十分払える。要らないちょっかいをかけるのはどうかと思ったけれども,その男が山崎にどういう風に触れたのか考えるだけで釈然としないものを感じて,ついつい刀を振るった。感触があると同時に,背後から沖田が撃ちやすぜィ,と言うのも聞こえている。どうせ自分の後頭部を狙ってくるだろうから,薄くめり込んだ肋骨の隙間から噴出す男の血を見ながら山崎を抱きこむようにバズーカの軌道からそれる。山崎は,自分が男相手に手を上げたことを当然のように受け止めているらしく,刀に至っては自分が振るったのを確認して仕舞っている。もとより彼は刀を振るう立場ではないのだから,まぁそれは一向に構わないのだけれども。
 バズーカが天井や壁や地下を震わせて,ついでにきっと山崎を抱きしめた男を吹き飛ばす。その体から降りしきる血の雨を,山崎は自分の体の下から眺めている。沖田の発砲と同時に一番隊が地下へ踏み込んだ。もう討ち入りの件は心配ないだろう。
「ひじかたさん」
「どうした」
 何も言わずに山崎は白い手を差し出す。血やら何やらがついた刀を受け取るのはいつも山崎の仕事だ。何故彼がこの刀の呪縛を受けないのかよくわからない。使うわけではないからか,何故か知らないけれども,その刀を受け取って山崎はまた笑った。
 この不安定ないきものに血の雨が降ることが無いか,ふとそんなことを考える自分は恐らく立場にふさわしくないのかもしれないと,彼を相手にしている時だけ思うことがある。

***

本気で山崎の女装にベタぼれな自分がびっくりします。ときどき。
08-02-25


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