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証明したいんだ

 想像していたことが悪い方向にばかり転がるのを見慣れているのは,職業柄だと思う。くのいちは旧知の仲の男の渋面を敢えて何の慰めも口にしないで見た。幸村の個人的な親交のために今日はこの男に会いに来たが,どうもこの男は見慣れない。それが特徴的な隻眼の所為か,この男が持つ独特の覇者たる雰囲気の所為か,それとも単にこの男が立場としては敵に当たるからなのか,判別はしかねた。しないで正解だろう。
 今後そこまで深入りする仲でもなければ,むしろ刀を交えることの方が多い立場だ。自分が友好を深める必要はあるまい。顔を上げた青年は幼い顔のつくりをしているが,確か幸村と同い年と聞いた覚えがある。確かに,一見すれば幼い顔に浮かぶ表情は老成している。楽に今の当主の立場に立ったのではないらしいということだけ知っていたが,苦労したんだろうな,と人事のように考え,それから彼が書面から顔を上げたのを見て口を開く。
「宜しくお頼み申し上げますと,そのような言付かりを受けて参りました」
「内容は貴様は知っておるのか」
「はい」
 伊達は自分の仕事用の口調を気持ち悪そうに見た。けれども慣れたのか,そのうち何も気にしないでその口調の自分を普通に他国の一人の忍として見ているようだ。
 誰もが今から天下分け目の戦が起こることを知っている世の中。
 自分が伊達を訪れたのは他でもない幸村の書状を彼に届けるためだった。言葉を選ぶのを手伝ったから当然に中味も知っている。お人よしな彼らしい内容だった。今回ともに立つ仲間を守るために,決して徳川を裏切れとは言わない,だが今までの友誼に基づいて少しでも上杉を庇い立てしてやってくれないかと言う内容。
 このことは直江も,あるいは上杉も誰も知らない。
 幸村が勝手に行ったことだ。
 そんなことをして何になるのだとくのいちは馬鹿にした。伊達はきちんと損得勘定を出来て,複数の思惑を持ってもそれを隠して仕事を出来る男だ。態々幸村が頼まなくても,もしそれが自分にとって実際の意味でも精神的な意味でも利益になるのならば絶対にそうしてくれるし,どうにもならないならばどうにもなるまいと諭した。だが幸村はそれでも良いと言うと,これを届ける仕事は信頼できるお主にしか頼めぬとまで言い放った。まったく,よく出来たご主人様である。
「難儀よの」
 伊達は書状を細かく裂いて火鉢に入れた。その時点でくのいちは大体の返答の方向は掴めた。というかそんなものは来る前から掴んでいた。けれども幸村の頼みは聞き入れないわけには行かないのだ。
「幸村さまらしいよね,夢見がちで」
 ほんの一瞬だけ仕事の顔を緩めた。伊達は少し顔を上げてふん,と鼻を鳴らすと,全くだと頷く。
「個人的に貴様の主のそういうところは嫌いではない。だが,この話を受ける受けないを友情で語ることは出来ない」
 だろうと思っていたことだ。
 くのいちは深く頭を垂れる。
 彼は一国の大名だ。そこが,幸村と決定的に違う。彼の一家も上田と言う城を有しているが,そこに何千何万もの民を抱えて政を行っているわけではない。武田が滅んだ時点で,彼は言ってみれば自分の義に則って動いてはいるけれども所詮ただの浪人だといっても過言ではない。理想だけで語れるものが多くはないことを自覚していても,それを信じてすがって止めるものは周りには居ないのだ。
 その点,上杉の直江は多々周りが見えていないことが多いように思う。
 武田と違って上杉は黙っていれば安泰だ。
 伊達が直江を好かないのも納得が行く気がする。
「では,その旨お伝えいたします」
「個人的な話の所は伝えなくて良いからな」
 この男は,この男なりに何かを考えているのだろう。
 だからきっと好悪の話など伝えられたくないのだ。そこから伊達を構成する人間関係のほつれが生じて伊達の国を危険に晒すのがきっと嫌なのだ。分からないでもないけれども,自分の主の思惑を少しだけ守りたくて,くのいちは口を開く。
「ねぇ,政宗様」
 声の緊張を解き,一人の女の声を出す。きっと伊達は緊張しただろう。彼は自分がどれほど幸村に心酔しているか知っている。幸村に害を為すものがくのいちにとって許しがたいものだということも知っている。だからくのいちが忍としてでなく一人の人間として声を出す時,伊達の判断をくのいちが喜ぶはずもないことも知っている。
「これでも,駄目?」
 案の定彼の筋肉は強張っていた。とす,と態と音を立てて飛び上がり,彼が動けないうちに背後に飛び込む。二本の苦無を首の前で交差させる。幼い顔を正面から見ていたから気付かなかったけれども,伊達の背中は幸村と同じくらい大きかった。触れたら鞭打ちそうなしなやかな筋肉の背後をとるのは恍惚に似て心地良い。絶頂を左右していると思うとくのいちは思わず舌で唇を舐めた。
「私怨だよ。政治に使うって脅されたら直ぐに離す」
「そんなことは分かっておる」
 伊達は緊張こそしているが少しも動揺はしなかった。面白い大名様だとくのいちは思う。腹が据わっている。後ろを取られたら国ごと取られるから,取り乱して泣き叫ぶ大名ばかりを見ていたくのいちにとって,こんな反応をする大名がまだ残っていること自体が驚きだった。価値のある男だ。自分が最初見慣れなかったのも頷ける。
「そんなに幸村を死なせたくないか」
「あのひとは,理想家だからね」
 目の前の苦無をきっと見下ろしながら,伊達は小声で呟いた。少しは目の前の刃物を恐れているのかもしれないが,本質的にはくのいちが伊達を斬ることはできないことをよくわかっているのだろう。それはそうだ。自分が真田の手のものだと少し調べれば分かるだろう。むしろ当主がこうなってもまだ動かない,この部屋には居ないけれどもこの部屋を取り巻く伊達の配下の者をくのいちは賞賛する。
「理想が現実になることだってあるって証明してあげたいの」
 勿論,夢物語だけどね。
 くのいちはまだ苦無を下ろさなかった。少しでも伊達に意を翻す意思があれば,別に徳川を裏切れと言うのではない,ただ上杉を庇ってやってくれと言うだけだ。口約束で頷くことだって出来る。もちろんそんな意思は無いだろうけれども,この男がどうやって自分を説得するかが見たかった。
「だがあいつらは所詮夢想家だ。儂が現実を見せてやる」
 分かっているのだ。
 本当は自分だってそうしたいんだ。
 くのいちは笑って腕をはずす。
「それでこそ政宗様だね」
 また床を蹴って何事も無かったかのように元居た場所に戻る。ここからはもうただの一介の忍で良い。もう二度と彼と緩い声で話すことは無いだろう。用事はこれで済みました,と言う声が自分で思うより硬質に畳から跳ね返ってきて驚いたけれども,せめて喧嘩ぐらい売ってから帰ろう。
「では次は戦場で,本気で斬り合いましょう」
 深く頭を下げる。配下の者が何かしてくるかもしれないと思ったけれどもそれは無かった。伊達はあぁ,とだけ言った。幸村と同い年だと言うけれども随分と老成したその男は,独眼竜と呼ばれて狸の傍に伏せ続けるのだろう。この男が天に昇る瞬間は見る価値があると思った。だが,その頃まで果たして自分は生きているだろうか。
 城と奥州の城下町を一気に駆け抜け,街道脇の獣道に入ってから,くのいちは自分が泣いているのに気付いた。要は自分は悲しい先が見えている。否,誰も彼もそうだ。ただ彼の夢を叶えられないのがこんなにも悔しい。

***

関ヶ原直前ネガティブくのいち。伊達はもしかしたら直江に思い入れがあるかもしれない。
08-03-08


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